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第9交響曲

―禁じ手なしの芸術―
渡辺和

 

〈第9〉の生まれた時代
ボン宮廷歌手ファン・べートーヴェンの息子であるルートヴィヒ(1770−1827)は、父が期待したようなモーツァルトばりの天才ではなかった。
両者の資質の違いは音楽性だけではない。究極至高の職人アマデウスに対し、ルードヴィヒは激動の時代に生きる多感な芸術家となったのである。啓蒙専制君主の下、新設されたボン大学で聴講する若者は、勃発したフランス市民革命シンパの自由主義者が説くギリシャ古典文学のロマン的解釈に心酔し、シラーの疾風怒濤を魂の糧に成長することになる。
モーツァルトが没した翌年、ボン選帝候の援助で、べートーヴェンはウィーンに赴く。作曲技術を磨きつつ、自作演奏や家庭教師などでプロとして生計を立てるうちに、ほどなくナポレオン軍に解放されたボンからの仕送りは途絶え、結果として自立した音楽家として生きることを余儀なくされた。
18世紀から19世紀への変わり目に近い頃、耳の病気からの絶望感を克服したこの芸術家は、音楽の絶対美とパトスのほとばしりを融合させた〈英雄〉や〈運命〉などの傑作を輩出する。
やがて、ナポレオン革命の昂場感は去る。革命は失敗し、いまや神聖ローマ帝国皇帝ではなく、オーストリア帝国の皇帝へと矮小化されたハプスブルク家が、宰相メッテルニヒに率いられて戻ってくる。アパシー(無気力)の時代が到来した。社会変革と人間中心主義への道は、あっさり閉ざされた。とはいえ貴族には、実質的な力はもうない。経済的実権を握ったのは、身相応ら成功に汲々とする平民である。
芸術家の新たな筆頭顧客となった彼らが好んだのは、気楽なイタリア歌劇か、ビーダーマイヤーの家庭で楽しむ気持ちの良い小品だった。熱血漢べートーヴェンが世紀初頭に夢見た改革とは、こんな小市民層の誕生ではなかったはずだ。
1810年頃を過ぎると、イタリア歌劇に沸くウィーンでは、この大家は面倒な音楽を書く、時代遅れの偉い人。そんな状況で、作曲家の創作力も勢いを失う。もちろん、傑作、佳作、問題作はあるものの、今日では敢えて誰も近付かない駄作や愚作も一緒に輩出される、一種の模索状態が続いたのである。

 

革命家が生んだ破格の交響曲
1822年暮れに、べートーヴェンはロンドン楽友協会から交響曲を依頼される。その頃、老大家は〈荘厳ミサ曲〉の完成に四苦八苦していた。ミサという音楽形式が必然的に抱えるカトリック教の世界観に限界を感じていた孤高の老芸術家の脳裏に、何度となく蘇るのは、汎宗教的メッセージの媒体として若い頃から心惹かれていたシラーの詩「歓喜に寄す」であった。
日本文化に完全に定着した唯一の西洋音ブロイデシェーネル楽である、歳木の「風呂出、さあ寝る」の大合唱は、現在の我々に何の違和感も与え

 

 

 

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